2017年10月23日月曜日

恵みが満ちている──安曇野

2017.9.30【長野県】──安曇野

 高原の朝はもう寒いためエアコンを入れましたが、部屋や廊下のセントラルヒーティング設備からスキー宿を想起し、暖房を囲み車座になった記憶がよみがえります。



 なぜこの地に国営公園かと思うも、山から扇状地を下る水の勢いを目にすると、斜面の流れを生かした公園というのはこの地域にしかできないと納得させられます。
 この日は土曜日+サービスデー(入園無料)で次々と駐車場が埋まる様子から、自然に恵まれた地域とはいえ、子どもたちを遊ばせる広い公園が少ない状況が見て取れます。
 公園開設は、衆議院議員の提案を竹下 登(当時 自民党幹事長)が後押ししたらしい(2004年開園)。お金はかかっても笑顔の子どもたちが走り回る姿を目にすれば、風当たりも弱まるのではないか(採算性は別問題)。





 八面大王は安曇野に伝わる伝説上の人物で、平安時代の征夷大将軍 坂上田村麻呂に退治されたと伝わるが、悪者だとしたら人をもてなす足湯の顔にはなれないはず。
 田村麻呂が東方遠征途上で農民に食料などの提供を強いたため、見かねた八面大王が遠征軍に立ち向かったと語り継がれる、伝説のヒーローのようです。

 付近には安曇野アートラインとされるルートがあり、周辺にはあきれる数の美術館等施設が集まります。
 右は、ジャンセン美術館併設のそばcafe(現在ギャラリー+カフェ)で、デートで立ち寄れば女性はよろこびそうなたたずまいながら、若い時分は「ガラじゃない」などと、敬遠していたようにも。

 長野で最初の食事は山菜そばで、飾らない素材のおいしさに「都会人の食の貧しさ」を思い知らされました。
 高原で育った元気なそばや野菜をその土地でいただくのですから、これ以上の豊かさはありません。
 右は、教会のような建物(に見えない写真でスミマセン…)の碌山(ろくざん)美術館。彫刻家 荻原碌山(守衛)の個人美術館で国の登録有形文化財とされ、ひと息ついて落ち着ける施設(1958年開館)。
 作品は以前目にした気もする、この作家の線の太さ・力強さに好感を抱きました。

 隣接の穂高東中学校(←ホームページに校長先生の文章が並んでは生徒も読む気しないよね)では学校祭が開かれ、にぎやかな雰囲気が伝わってきます。
 立派な校舎で、自治体の財政も豊かそうな印象。



 ここが本宮とされ、上高地に奥宮奥穂高岳山頂に嶺宮があり、北アルプスでなく「日本アルプスの総鎮守」とされるのは、日本アルプスの父 ウェストン氏への敬意か(日本アルプスの名称由来は場所により諸説ある)。
 毎年9月27日に行われる例大祭「御船祭:おふねまつり」直後のため、船の骨組みが残されます(右)。
 福岡県志賀島周辺に暮らした古代日本の氏族で海神(海人族:かいじんぞく)の阿曇氏がこの地に定住し、663年白村江(百済:くだら)の戦いで戦死した安曇連比羅夫(あずみ の ひらふ:外交官兼武将)命日に行われる祭事で、御船をぶつけ合う勇壮な祭とのこと(見たかった)。




 大王とは当然「八面大王」のことで、住民を守り倒れた大王を祭る大王神社が洪水で流されたため、農場内の高台に移設されます。
 わさびは日本原産の香辛料のため外国人旅行客の関心が高いようで、様々な国の方々が「Wasabi」→「Wabi Sabi ?」などと(?)足を運ぶ観光名所。
 日本人でも本わさびを食する機会は限られているので、香りを楽しめる「本わさびソフトクリーム」、ツーンと強烈な辛さもすぐおさまりクセになる「本わさび丼」を食べましたが、なるほどしっかり記憶に残りそうと。


 上・右は、1989年黒澤 明監督の映画『』の舞台とされた地ですが、おそらく当時から変わったのは、人工物の水車小屋が老朽化したくらいではないか(1基修理中)。
 山からの清冽な伏流水(地下水)が湧き出す地を開拓したわさび農場付近には、生き物を育む恵みが満ちているように感じます。
 寒さと雪を我慢できれば、人が暮らすには最適な環境と思え(わたしは無理…)、自然の恵みを分けてもらう意識を持つことから、長野県民の実直な人間性が育まれるようにも。




 付近の棚田は平安時代から観月の名所とされ、今和歌集や松尾芭蕉の俳句にも詠まれたように、棚田一枚ごとに映る月の美しさから「田毎の月」として知られます。傾斜地ながらもかつては湧水を利用したが、現在はため池(大池)と千曲川の水を汲み上げるそう。
 字面から小説・映画『楢山節考』を想起するも、原作(深沢七郎)は山梨県を舞台に描かれたもの。姥捨のルーツは「インド仏教、中国儒教で、親子の愛や人生の輪廻、老人の知恵への崇敬として説かれた」と、高速道SAの説明板にあります。
 収穫期こそハッピーな季節ですが、ロケーションは田植えの季節がベストのようです。


 今回の、長野・安曇野(千曲川を歩く)はこれで終了です。
 今回歩いた千曲川支流は山に近いため、川幅は狭くても多量の水がとうとうと流れる様から、奔流の印象が残ります。
 水に恵まれるも、厳しい冬に備える住民に領地争いするヒマはありませんから、川中島の戦いも季節(農作業繁忙期)や気候条件(積雪)にはばまれ、ドローやむなしとした両軍の将の領民に対する思いが、後世に語り継がれる理由ではないかと……

2017年10月16日月曜日

庶民に親しまれる──善光寺

2017.9.29【長野県】──長野市、白馬村

 長野の道路が走りやすいと感じるのはゆったり走る車が多いためらしく、渋滞時でも脇道から合流させる譲り合いも自然に見え、イライラを感じさせない空気があります。



 日本の仏教寺院では、国家の安寧を祈願した東大寺、スーパースター空海が開いた高野山 金剛峯寺、庶民に仏教を広めたルーツ比叡山 延暦寺が重要視されるが、善光寺は日本仏教が諸宗派に分かれる以前に開かれた、宗派を問わない霊場+女人救済の寺(上記の3寺は女人禁制だった)ゆえ、庶民にもっとも親しまれた寺院ではないかと。

 見覚えのある山門の額は鳩字の額(下・左側)とされ、文字の中に5羽の鳩が潜んでいます(善・光は上の点、寺は下の点)。右側は鳩字の額絵馬で、願いが輝くようで希望が持てそうです。



 「牛に引かれて善光寺まいり」とは、洗濯物を角に引っかけ走り出す牛を追いかけたおばあさんが(赤い布だった?)、善光寺の仏の光明に照らされた牛のよだれが「うしとのみおもひはなちそこの道に なれをみちびくおのが心を」と読めたことから、それ以来信心深くなった(女性の信仰対象であった)と伝わるもの。

 ダラダラと登る参道(両側に店舗が続く)の先にあり、それなりのご利益がありそうと感じさせる立地も、庶民に愛される理由ではないかと(とても印象的な光景)。




 特に関心がある訳ではないが(大河ドラマ「天地人」で上杉謙信役の阿部 寛が印象に残る)、天下分け目の関ヶ原ではなく、好敵手とされた上杉謙信 vs 武田信玄の一進一退の戦いこそ、武士の意地のぶつかりあいと。
 武田の勢力は、現在の山梨県から長野県北部をうかがい、上杉は新潟県+富山県東部から長野県北部へ進出すべく、この付近で激突します。
 実際の戦場は数キロ西側らしく、ここは武田軍が勝鬨を上げた八幡社(右)周辺に首塚などが祭られますから、武田家に縁のある方々が整備したようです。
 信玄・謙信一騎討ち像(下)の構図は絵になります。




 山を越え仁科三湖(にしなさんこ:青木湖、中綱湖、木崎湖)やJR大糸線が通る谷の展望が開け、反対側斜面にジャンプ台が見えた瞬間、行かねば! と直行します。
 長野冬季五輪 原田選手の「ふなき」は、感動のYoutubeで! 忘れられない名場面です。
 この時、個人ノーマルヒル7位入賞の葛西紀明選手は、個人ラージヒル、団体メンバーから外されます。やり残したことを追い求め続けるうちにレジェンドと呼ばれる年齢となりますが、彼が切り開いたフロンティアとしての挑戦は、競技者に勇気を与えています。
 ピョンチャン冬季五輪への出場・活躍を応援します!



 仁科三湖は、付近を通る糸魚川静岡構造線(大断層)の活動によって形成された「構造湖:地滑りによるせき止め湖」とされ、東側は現在も隆起しているとのこと。
 長野県で見かける「○科」の地名は、坂のある地形の名らしいと、司馬遼太郎「街道をゆく:信州佐久平みち」で目にするも、ルートが違うため紹介できるのはこれだけ。
 透明度が高く、湖底から湧水があるため全面結氷しない湖ですが、湖岸にいくつもあるキャンプ施設は個人所有地にあるため、どこも「立ち入り禁止」とされます。
 1976年の映画『犬神家の一族』の湖面から突き出す両足はここで撮影されたそう。




 青木湖からの水が流入し木崎湖への流れの途中にある小さな湖で、朝、カーテンを開けた窓越しにこんな景色が広がったら、と思う見事なロケーション(映画『犬神家〜』で見たような気もします)。
 JR大糸線 簗場(やなば)駅の目の前にあり、ヘラブナ釣りで有名らしく釣り人もチラホラ見かけますが、人気は陰ったようで駅前の土産物店などは朽ち果てています。




 引湯ながらも木崎湖温泉の宿には、白馬村のスキー客や立山黒部アルペンルートの扇沢口が近いため、黒部方面に向かう宿泊客も多いとのこと。
 立山、黒部ダム訪問の意欲は、失っていません。

 田が黄金色に輝く収穫の季節ながらもごはんがピンと来なかったのは、新米をいただくにはちと早かったのか……
 仁科三湖の山を背負うロケーションから、映画『犬神家の一族』の情景や、監督の市川崑マジックがよみがえります。




 看板に誘われより道した、県天然記念物に指定される本物の湿原。水分をたっぷり含んだ土の感触は、若い時分の調査ならよろこんで歩いたと思うが(汚れてもいい恰好)、普段の靴なので撤退です。
 また、車で水源地へ向かうも、豊富な湧水によるぬかるみに遭遇し、深みにはまる前にこちらもバックです。
 ひとりでは抜け出せないとの判断ながらも、すっかり臆病になったと……


追記──2017.10.22 衆議院選挙

 届いた投票所入場整理券には、見慣れた田町周辺の地図が印刷されています。何かの間違いと読めば、「7月10日以降に新住所地へ転入届を提出した方→港区で投票してください」とあります(転居は8月26日)。
 決まりなら仕方ないと、勤め先に比較的近い麻布支所で事前投票しようと思うも、「小選挙区が改訂されたので、田町に投票に来てください」と。
 選挙を決めたのはアベちゃん(by kyon2)の勝手で、旧居住地の投票のために交通費をかけて行くべきなのかと考えてしまいます……


2017年10月9日月曜日

地域に還元された豊かさ──小布施

2017.9.28【長野県】──小布施

 今年の夏休みは引っ越しの準備で消化してしまい、半端な日数で回れそうな長野・安曇野周辺に足を運びました。



東京駅新幹線ホーム


 2015年開通の北陸新幹線「かがやき」で長野へ向かいます(上)。
 1991年東北・上越新幹線が東京駅に乗り入れてからこのホームを利用するのは初めてで(記憶にあるのは上野駅)、路線別の車体やデザインは、各地方のシンボル差別化を目指すかのように。2020年運用終了予定の2階建て車両MAXの大きさに驚いた。
 東京、大宮の次が長野(約1時間半)の速さに加え(比較対象の新宿〜松本間 スーパーあずさは約2時間半)、新しい車両は快適で「ウフフ!」(リンク先YouTube)です。

 長野駅改札前には、1998年冬季長野オリンピックの垂れ幕が飾られており、「あれから20年?」が今回の第一印象。


岩松院(長野県小布施町)

 江戸期の画家 葛飾北斎は晩年、小布施の豪商 高井鴻山(こうざん)の誘いを受け、岩松院の天井絵「八方睨み鳳凰図」等を残します。先日NHKの歴史秘話ヒストリアで、娘 お栄との共作と紹介された(ドラマ 眩(くらら)~北斎の娘 も放映)鳳凰の眼にみなぎる生命力に圧倒されます。

 裏庭の池はアズマヒキガエルの繁殖地で、小林一茶が「痩せかえる 負けるな一茶 これにあり」(メスを巡る争いで、やせガエルを応援する自分)を詠んだとされる。

 北斎の作品を展示する北斎館付近では、マンホールもグレート・ウェーブです(下)。



造り酒屋


  付近に複数鎮座する立派な酒蔵は、地主に納められた米・穀物の余剰分を加工販売したことに始まり、味噌や醤油にも手を広げ、富を生み文化をもたらしました。
 そんな余裕からか、敷地内を「ご自由にお通り下さい」がステータスらしく、すれ違えない軒下の路地を遠慮なく歩けるのは一興。

 付近では栗が有名らしく、和・洋菓子店の紋には栗を配した図柄がいくつも見られます。普段は食べようと思わないが、季節柄「栗おこわむすび」をおいしくいただきました。これも地主が始めた商売らしく、町を豊かにする使命を果たしたと言えそうです。下は旧酒蔵の壁。





  長野に戻る道すがら目にし「エムウェ〜ブ!」と声を上げ、清水宏保(鳥肌モノのYoutube)、岡崎朋美選手(同)が活躍した長野五輪に思いを馳せます(400mダブルトラックのある巨大な施設)。
 長野五輪スピードスケート会場として建設されたもので、当時は外見も紹介されましたが、近ごろは、小平奈緒、高木美帆選手たちの活躍にフォーカスするため、その姿を見かける機会も少なくなりました。

 長野新幹線は、長野五輪前年の1997年に開通しますが、2015年金沢駅まで開業の際に北陸新幹線とされ、長野新幹線という名称は消滅しました。


追記──世代交代は突然に

 絶対王者とされた体操 内村航平選手のアクシデントはショックながらも、トップを競う選手たちは、ライバル以上にケガの恐怖と闘っていることに気付かされます。
 以前、内村選手が語った「地獄」の言葉には、連覇を重ねる度に重圧が増していく苦しさが込められていました。
 ですが、今回の事態を真っすぐに受け止める白井健三選手には、内村からのバトンを引き継ぐ覚悟ができていたようなので、焦ることなく東京五輪までに世代交代がとげられるよう応援せねばと。

2016年10月17日月曜日

高みの心地良さ──駒ヶ岳〜大鹿村

2016.9.27-28【長野県】──「木曽路を歩く_4」

 地元の天気予報で晴れそうなのはこの日だけなので、「千畳敷カールに挑む日!」と決め、計画を組み替え向かいます。




 上はヨーロッパのお城のように見せたい? ウインザーというゴルフ場の宿泊施設。
 山間地のコースながら早朝プレーは盛況で、朝食の時間(8時前)にラウンドを終えたプレイヤーたちの「頑張ればもうひとまわり」に驚きます。
 間違って12月の予約をしながらも泊めてもらえたが、夕食はトンカツ定食…… ですが、味噌カツを初めておいしいと感じました(味噌がちょい辛め+いい肉だから?)。


千畳敷カール(駒ヶ岳ロープウェイ)→カール:氷河の侵食できた椀状の谷


 山の天気は気まぐれながらも、何とか日が差し青空を望めたので十分満足です!
 みなさんこの日を狙っていたようでロープウェイは30分待ち。
 千畳敷カールへの道は険しく。菅の台バスセンター〜しらび平ロープウェイ駅間の路線バスは(一般車両通行禁止)、低速ギアで山道を30分登りっぱなし。
 路肩から崖を見下ろし「運転手に命を預けていいの?」の気持ちと、覚悟して乗るロープウェイの違いは、地に足が着けばジタバタできるとの意識によるようです。
 しらび平〜千畳敷間の駒ヶ岳ロープウェイ(1967年開通)の売りである、日本最高の高低差950m、日本最高所 千畳敷駅の高度2611.5mの迫力は圧巻ですし、このルート開設に挑んだ意欲に拍手をしたい!(名鉄グループ)


 バスの中で「千畳敷(畳千畳分)って、そんなに広くないかも?」通りの第一印象でしたが、それは、登れそうに見えるほど尾根が迫るためで、右側の沢筋にある登山道の分岐まで20分程かかりますから、千畳で足りる広さではありません。
 上の険しく雄大な景色から、以前上高地河童橋からの光景に「とても登れない」(穂高連峰には涸沢カールがある)と感じたことを思い出します(眺めるだけで十分)。
 間もなく訪れる紅葉のシーズンは、この日と混雑のレベルが違うことでしょう……


 下りのロープウェイを待っていると、ゴンドラ上のワイヤー付近に人影が!
 ワイヤーの目視検査をしていたようで、安全運行には欠かせない仕事と思うも、高所ビビリになってきたわたしなら、酔ってしまいそう。
 支柱通過時の「ガックン」(の観察が大切そう)も、しっかり捕まっていれば大丈夫と思っても、ムリ、ムリ! とにかく寒そうです……(忍者のように走り去りました)

 これまで訪れなかったのは、混雑と待ち時間から足が向かなかったためで、オヤジになり多少は忍耐強くなったようですが、ここでくじけては立山には行けないと……


2016.9.28


 一度は行かねばと思っていた中央構造線博物館ですが、ついでに寄れる場所ではないので、目的地と定め向かいます。
 ここ数日の行程で山道にも慣れ苦もなく到着しますが、「信州で2番目に山奥の村」のキャッチフレーズの通り、集落の外れはすぐ山です。
 1番とされる栄村秋山郷への道はスゴかったし、あそこは秘境でした。

 上は、日本列島周辺で発生した地震の震源を示す紙箱の模型。
 関東付近で太平洋プレートが急な傾斜で沈み込む様子が見て取れます。


 中央構造線は、日本列島の土台が造られた際の巨大断層で、九州(熊本地震の断層付近は未確定)から茨城県まで続くが、現在も愛媛県付近は活動的とされるそう。
 上はその様子が見られる露頭ですが、左右の岩の違いは分かっても、断層付近の岩はグチャグチャなのでわたしの知識では分かりません。現在は天竜川流域にある伊那谷断層の活動が活発とのこと。
 学芸員の方の丁寧な説明に対して自然に質問する自分の姿に、学生時代以来(?)の懐かしさを感じるなど、楽しい時間を過ごせました。ありがとうございました!


 今回の旅行で、おいしい猪・鹿・馬・牛・豚・鳥肉をいただきましたが、猪・鹿は人の暮らしに害を及ぼすことから、この地を含め駆除が認められる地域があります。
 駆除された動物は、地域限定の楽しみとされましたが、近ごろはジビエ(狩猟や有害捕獲された猪・鹿を食肉とする)として地域活性化に活用されます。
 山間地でしか味わえないおいしさに、数量限定ながらも村おこしの可能性を感じます。
 上は、稲を野生動物の食害から守る電気柵。


 映画『大鹿村騒動記』(リンク先はYouTube)の舞台訪問も目的のひとつでしたが、急な土砂降りの雨で断念。映画の舞台となったディア・イーターで「鹿を!」と、雨中を駆けるも閉まっていた…… 上も車内から窓を開けて撮ったもの。
 映画にも登場した、1767年に始まったとされる大鹿歌舞伎(国の無形民俗文化財)の舞台である、大磧神社(たいせき)も断念。
 この映画が遺作となった原田芳雄さんに挨拶をして、この地を後にします。

 付近にリニア中央新幹線 南アルプストンネル建設が予定されることから、大鹿村にはリニア対策委員会が設けられます。われわれ世代には最後の夢との期待があるも、駅のない沿線地域のほとんどは「単なる迷惑」でしかないことも、心に留めておくべきと。

 今回の遠出は、これで終了になります。次は立山! と思うも、いつ行けるか……


追記──大学の先輩がNHK『ブラタモリ』に…

 4つ上の学科の先輩が、10月15日放送の「#50 富士の樹海」に出ているではありませんか! 以前、西ノ島(海底火山の噴火で島が拡大した)調査の番組でもチラッと顔を見ましたから、航空測量の第一人者になられたようです(大学時代は火山が専門)。
 赤色立体地図(航空レーザー測量のデータ解析・表現法)を開発し、実際の防災に役立っているそうですから、研究者として素晴らしい成果といえます。
 次週も出るらしいので、ちょっとウザいおしゃべりを見てみて下さい……(番組によく登場する「マニアックな専門家」っぽい人)

2016年10月13日木曜日

陸の孤島を遺産に──妻籠・馬籠

2016.9.26【長野県】──「木曽路を歩く_3」

 妻籠(つまご)・馬籠(まごめ)宿を通る旧中山道が、木曽川から離れ峠道を選択したのは、道を通せないほど急峻な渓谷があるためだろう。そんな印象を抱きながら木曽川を離れます。




 妻籠・馬籠宿付近の旧中山道は、国道・中央本線・木曽川と分かれて山中に入り、馬籠峠を越えた中津川で再会します。明治期に建設の国道・中央本線は木曽川沿いに通されたため、旧街道沿いの妻籠・馬籠の人通りは絶え、両宿場は陸の孤島と化します。
 はしごを外された後も続いた江戸時代の生活がそのまま取り残されたため、タイムスリップしたような宿場町の風情を体感できます。

 上は宿場の上流にある関西電力妻籠発電所で(1934年:昭和9年運用開始)、送電線の細さに目が止まったが、出力2,800kWは水量からすると大きな電力らしい。すると、都内で見かける太い送電線には相当高圧な電気が流れていそうです。
 都心の停電を招いた送電線火災で、紙の絶縁体を使うと知り驚きました(電気分野にはまるで素養がないんです)。


 1965年観光開発に向けた集落保存の論議が始まり、日本で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に指定〜妻籠宿保存事業開始を受け、68年地元住民が「妻籠を愛する会」を設立し、「売らない・貸さない・壊さない」運動が始まります。
 個別の建物だけでなく、宿場町を丸ごと保存する意義が念頭にあるため、石段、鍵の手(クランク状の道)や建物間を流れる共同用水などには、往時の会話や生活の息づかいが感じられるようにも……


 上はパンフレット等で使われる光景らしいが、左右の木は江戸時代から生えていた? そんな関心が、宿場の歴史を身近なものに感じさせてくれます。
 当時の宿場町は、江戸←→京を行き来する旅人の雑多な会話で騒がしいも、様々な情報交換の場だったことでしょう。
 山間地においても、中心都市の情報を耳にできる宿場がにぎわった交通システムは、街道筋にある宿場の平等性を保っていたとも言えそうです。
 人づてに伝わる情報を、また聞きとして話半分で受け止める、おおらかさを持った時代の空気感が、いまも漂っているかのよう……




 中山道は、山間地を通る険しい道+東海道より距離も長いが、桑名の海路や大井川越えなど水難の危険がない上、東海道より入り鉄砲に出女の取り締まりがゆるいため、女性の利用者が多く「姫街道」とも呼ばれました(宿賃も東海道より割安だったそう)。
 幕末期に公武合体のアピールに利用された、皇女 和宮が将軍 徳川家茂に嫁ぐ降嫁(こうか)行列は中山道を通り、その行列は50kmに及んだらしい。
 馬籠宿ではいまも皇女和宮降嫁行列が行なわれますが、こんな坂道をいくつも越えて嫁いだ覚悟はいかばかりかと……


 山間にある宿場町の印象は、水戸黄門御一行ではなく、木枯らし紋次郎(リンク先YouTube)こそ似合う光景と。
 徳川家康の孫と渡世人では比較にならないが、不良ながらも極道から必死に身を守る姿に、生き抜く本能のようなものを感じていました。
 この地が観光地として注目されたのは高度経済成長期で(1967年馬籠観光協会発足)、1972年に放送開始の紋次郎も、そんな時代から生まれたのかと……


 馬籠は島崎藤村の出身地(小説『夜明け前』の舞台)で、島崎家は宿場町を整備し本陣を努める名士だったことから、本陣跡地に藤村記念館があります。
 こんな傾斜地に宿場が整備されたのは、「峠道の途中でひと息つきたい」と、足を止める旅人が多い急坂だったためか?(山道が多いため宿場間は東海道より短い)
 わたしも途中で断念しますが、急な土砂降りを避けられたので結果オーライと……


追記──阿蘇山噴火…

 ようやく生活が立ち直りかけたところに、追い討ちをかけられた地元の方々には、お見舞いの言葉しかありません。
 地震との関連不明の説明は、裏付けが取れないだけで何らかの関連はありそう。
 観光の方々も「応援のつもりで来ました」の気持ちで足を運んでくれるので、ここが踏ん張りどころ! と、引き続き応援せねばと……

2016年10月8日土曜日

地元の誇りを守る──木曽路

2016.9.26【長野県】──「木曽路を歩く_2」

 以前、隣の天竜川(飯田線)沿いを走った際、落石や険しい峡谷の緊張感から、ヘトヘトになった記憶があります(若い時分は長い距離を走っていたし…)。
 今回の木曽川・中山道(中央本線)沿いには古くから宿場町が整備され、不安なく走れるのは主要街道のおかげと、旅人が行き交った時分に思いを馳せます。




 上は道の駅 奈良井 木曽の大橋で、冬季は閉鎖されるためか売店はなくトイレだけですが、自治体は「総檜造りの太鼓橋」と胸を張ります。
 橋のふもとで写生する老人が、「こんな橋を作るより…」と毒づくのも分かりますが、わたしを含め観光客の関心を引くシンボルに違いありません。
 「橋はこんなもん?」の印象でも「宿場の町並みは素晴らしい!」と満足すれば、広告塔の役目を果たしたのではないか? 橋がなければスルーしたかも知れませんし……

 難所とされた鳥居峠は、北側の信濃川水系(→日本海)と南側の木曽川水系(→太平洋)を分ける中央分水嶺にあたるも、北側の奈良井・贄川(にえかわ)宿は木曽路 十一宿場とされ、南側の木曽に帰属意識を持ちます。
 国ざかいの山間地では線引き争い(美濃と信濃の綱引き)が絶えなかったが、江戸時代に尾張藩(南)とされ、現在は馬籠(まごめ)峠まで長野県とされます。

 右は「鍵の手:クランク状の道」にある荒沢不動。連続テレビ小説『おひさま』のロケ地(安曇野・松本が舞台)で、「いい場所」と思ったはずも記憶から消えている……

 出発前は台風や天候不順で気温の低い日が続くため、山間地向けの暖かい服を選ぶも(半袖を持たず)暑さが戻り、右のひさし(小屋根)で日差しを避けていました(彼岸を過ぎても夏が終わらない…)。
 小屋根は蚕の養殖に由来するらしいが、旅籠では雨宿りする旅人の客引きに利用されたのではないか?
 わたしなら、雨を理由に早々に行程をあきらめ、宿でひとっ風呂浴びて「とりあえずビール?」と、罠に飛び込みそうです……
 右は元櫛問屋の中村邸。


興禅寺:木曽福島


 「京都に負けない!」と驚いた立派な庭園は、山間地に広がる雲海をイメージし昭和期に造園されたもの。
 ここは、鎌倉建長寺の僧侶を招き、木曾義仲の追善供養として建てらた臨済宗の禅寺(1434年 木曽三大寺の一つ)ですが、度重なる大火を受け、国宝とされた平安様式の門(焼失後復元)、門付近にある枯山水の庭(入った途端に目を奪われた)など、ほとんどが再建された施設(下の江戸期に造られた庭は当時の姿らしい)。


 地元のヒーローである木曾義仲は、平氏を京都から追い出し一時は征夷大将軍となるも、評判の悪さ(政治力不足)から人望を失い源 義経軍に破れます。
 その後家系は絶えたとされるも、戦国時代の木曾氏が義仲の子孫を名乗ったように、時代を超えて地域の誇りとされ、菩提寺を守らねばとの強い意志を感じます。
 庭園に感銘を受けるのは、住民の願いが込められるためと……


寝覚(ねざめ)の床:上松(あげまつ)


 こんな山中で、浦島太郎伝説に出会うとは想像もしませんでした。
 竜宮城から戻った太郎は、周辺の景色や人も変わり居場所がないため旅に出て、正面の平らな岩の上で玉手箱を開き、白髪の爺さんになって目覚めた、と伝わるそう。
 ですが、上流の木曽ダム建設(1968年)による水位低下で水中の岩が現れたそうで、以前の水位は判別不能→伝説の真偽は不明ながらも、景勝地であることは確かです。


岩出観音:須原


 ガイドブックに載っておらず、ネットで見かけた写真頼りに探しました(付近の案内板も小さいこと)。1983年に修復されるも、近くで見るとかなり枯れた印象のため、舞台に上がっても縁には立てませんでした(結構高いし、下は道路)。
 平坦地は少ないが木材はあるので、見晴らしのいい場所にお堂を造れば拠り所になるとのもくろみは、景色の良さから人心を集めたようです。
 紅葉雪の季節こそ絵になりそう(信州にはこの手の建造物が多いらしい)。


桃介橋:南木曽(なぎそ)

 右は、1922年(大正11年)建設の木造の橋(支柱はコンクリート)で、読書(よみかきという地名:学校があったか?)発電所の建設資材運搬路として架けられ、真ん中にレール跡が示されます。
 橋の名称は、周辺の水力発電所建設により「電力王」とされた、福澤桃介(福沢諭吉の婿養子)による。
 床板の隙間から見える川にゾッとしながらも、歩かねば実感に残らないと往復します……

 付近の山は神宮備林(伊勢神宮の式年遷宮用のヒノキ確保、育成を目的とした地域)で、森林鉄道が通されますが廃止後は観光用トロッコが走ります(未見)。

 翌日、御嶽山麓の木曽町では、御嶽山の噴火(2014年)による犠牲者を悼む合同慰霊祭が行なわれました。


追記──大隅良典教授 ノーベル医学生理学賞を受賞!

 素人の印象で大変失礼ながら、細胞の基本的な活動(オートファジー)とされるものが、27年前まで発見されなかったことに驚きました。
 「食べなくてもしばらく生きられる」ことの証明に納得し、がん細胞を弱める研究が進んでいることに希望を抱きます。
 ノーベル賞を受賞した先生方は、近ごろの受賞ラッシュは20〜30年前のバブル期の研究成果によるもので、これからもノーベル賞級の成果を期待するためには、現在の研究環境をバックアップする社会的な取り組みが必要、との啓蒙に尽力されています。
 われわれにも、未来の糧となる遺産(希望)を残したい! 気持ちはあるので、可能な部分で協力させていただきたいと……