2016年10月17日月曜日

高みの心地良さ──駒ヶ岳〜大鹿村

2016.9.27-28【長野県】──「木曽路を歩く_4」

 地元の天気予報で晴れそうなのはこの日だけなので、「千畳敷カールに挑む日!」と決め、計画を組み替え向かいます。




 上はヨーロッパのお城のように見せたい? ウインザーというゴルフ場の宿泊施設。
 山間地のコースながら早朝プレーは盛況で、朝食の時間(8時前)にラウンドを終えたプレイヤーたちの「頑張ればもうひとまわり」に驚きます。
 間違って12月の予約をしながらも泊めてもらえたが、夕食はトンカツ定食…… ですが、味噌カツを初めておいしいと感じました(味噌がちょい辛め+いい肉だから?)。


千畳敷カール(駒ヶ岳ロープウェイ)→カール:氷河の侵食できた椀状の谷


 山の天気は気まぐれながらも、何とか日が差し青空を望めたので十分満足です!
 みなさんこの日を狙っていたようでロープウェイは30分待ち。
 千畳敷カールへの道は険しく。菅の台バスセンター〜しらび平ロープウェイ駅間の路線バスは(一般車両通行禁止)、低速ギアで山道を30分登りっぱなし。
 路肩から崖を見下ろし「運転手に命を預けていいの?」の気持ちと、覚悟して乗るロープウェイの違いは、地に足が着けばジタバタできるとの意識によるようです。
 しらび平〜千畳敷間の駒ヶ岳ロープウェイ(1967年開通)の売りである、日本最高の高低差950m、日本最高所 千畳敷駅の高度2611.5mの迫力は圧巻ですし、このルート開設に挑んだ意欲に拍手をしたい!(名鉄グループ)


 バスの中で「千畳敷(畳千畳分)って、そんなに広くないかも?」通りの第一印象でしたが、それは、登れそうに見えるほど尾根が迫るためで、右側の沢筋にある登山道の分岐まで20分程かかりますから、千畳で足りる広さではありません。
 上の険しく雄大な景色から、以前上高地河童橋からの光景に「とても登れない」(穂高連峰には涸沢カールがある)と感じたことを思い出します(眺めるだけで十分)。
 間もなく訪れる紅葉のシーズンは、この日と混雑のレベルが違うことでしょう……


 下りのロープウェイを待っていると、ゴンドラ上のワイヤー付近に人影が!
 ワイヤーの目視検査をしていたようで、安全運行には欠かせない仕事と思うも、高所ビビリになってきたわたしなら、酔ってしまいそう。
 支柱通過時の「ガックン」(の観察が大切そう)も、しっかり捕まっていれば大丈夫と思っても、ムリ、ムリ! とにかく寒そうです……(忍者のように走り去りました)

 これまで訪れなかったのは、混雑と待ち時間から足が向かなかったためで、オヤジになり多少は忍耐強くなったようですが、ここでくじけては立山には行けないと……


2016.9.28


 一度は行かねばと思っていた中央構造線博物館ですが、ついでに寄れる場所ではないので、目的地と定め向かいます。
 ここ数日の行程で山道にも慣れ苦もなく到着しますが、「信州で2番目に山奥の村」のキャッチフレーズの通り、集落の外れはすぐ山です。
 1番とされる栄村秋山郷への道はスゴかったし、あそこは秘境でした。

 上は、日本列島周辺で発生した地震の震源を示す紙箱の模型。
 関東付近で太平洋プレートが急な傾斜で沈み込む様子が見て取れます。


 中央構造線は、日本列島の土台が造られた際の巨大断層で、九州(熊本地震の断層付近は未確定)から茨城県まで続くが、現在も愛媛県付近は活動的とされるそう。
 上はその様子が見られる露頭ですが、左右の岩の違いは分かっても、断層付近の岩はグチャグチャなのでわたしの知識では分かりません。現在は天竜川流域にある伊那谷断層の活動が活発とのこと。
 学芸員の方の丁寧な説明に対して自然に質問する自分の姿に、学生時代以来(?)の懐かしさを感じるなど、楽しい時間を過ごせました。ありがとうございました!


 今回の旅行で、おいしい猪・鹿・馬・牛・豚・鳥肉をいただきましたが、猪・鹿は人の暮らしに害を及ぼすことから、この地を含め駆除が認められる地域があります。
 駆除された動物は、地域限定の楽しみとされましたが、近ごろはジビエ(狩猟や有害捕獲された猪・鹿を食肉とする)として地域活性化に活用されます。
 山間地でしか味わえないおいしさに、数量限定ながらも村おこしの可能性を感じます。
 上は、稲を野生動物の食害から守る電気柵。


 映画『大鹿村騒動記』(リンク先はYouTube)の舞台訪問も目的のひとつでしたが、急な土砂降りの雨で断念。映画の舞台となったディア・イーターで「鹿を!」と、雨中を駆けるも閉まっていた…… 上も車内から窓を開けて撮ったもの。
 映画にも登場した、1767年に始まったとされる大鹿歌舞伎(国の無形民俗文化財)の舞台である、大磧神社(たいせき)も断念。
 この映画が遺作となった原田芳雄さんに挨拶をして、この地を後にします。

 付近にリニア中央新幹線 南アルプストンネル建設が予定されることから、大鹿村にはリニア対策委員会が設けられます。われわれ世代には最後の夢との期待があるも、駅のない沿線地域のほとんどは「単なる迷惑」でしかないことも、心に留めておくべきと。

 今回の遠出は、これで終了になります。次は立山! と思うも、いつ行けるか……


追記──大学の先輩がNHK『ブラタモリ』に…

 4つ上の学科の先輩が、10月15日放送の「#50 富士の樹海」に出ているではありませんか! 以前、西ノ島(海底火山の噴火で島が拡大した)調査の番組でもチラッと顔を見ましたから、航空測量の第一人者になられたようです(大学時代は火山が専門)。
 赤色立体地図(航空レーザー測量のデータ解析・表現法)を開発し、実際の防災に役立っているそうですから、研究者として素晴らしい成果といえます。
 次週も出るらしいので、ちょっとウザいおしゃべりを見てみて下さい……(番組によく登場する「マニアックな専門家」っぽい人)

2016年10月13日木曜日

陸の孤島を遺産に──妻籠・馬籠

2016.9.26【長野県】──「木曽路を歩く_3」

 妻籠(つまご)・馬籠(まごめ)宿を通る旧中山道が、木曽川から離れ峠道を選択したのは、道を通せないほど急峻な渓谷があるためだろう。そんな印象を抱きながら木曽川を離れます。




 妻籠・馬籠宿付近の旧中山道は、国道・中央本線・木曽川と分かれて山中に入り、馬籠峠を越えた中津川で再会します。明治期に建設の国道・中央本線は木曽川沿いに通されたため、旧街道沿いの妻籠・馬籠の人通りは絶え、両宿場は陸の孤島と化します。
 はしごを外された後も続いた江戸時代の生活がそのまま取り残されたため、タイムスリップしたような宿場町の風情を体感できます。

 上は宿場の上流にある関西電力妻籠発電所で(1934年:昭和9年運用開始)、送電線の細さに目が止まったが、出力2,800kWは水量からすると大きな電力らしい。すると、都内で見かける太い送電線には相当高圧な電気が流れていそうです。
 都心の停電を招いた送電線火災で、紙の絶縁体を使うと知り驚きました(電気分野にはまるで素養がないんです)。


 1965年観光開発に向けた集落保存の論議が始まり、日本で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に指定〜妻籠宿保存事業開始を受け、68年地元住民が「妻籠を愛する会」を設立し、「売らない・貸さない・壊さない」運動が始まります。
 個別の建物だけでなく、宿場町を丸ごと保存する意義が念頭にあるため、石段、鍵の手(クランク状の道)や建物間を流れる共同用水などには、往時の会話や生活の息づかいが感じられるようにも……


 上はパンフレット等で使われる光景らしいが、左右の木は江戸時代から生えていた? そんな関心が、宿場の歴史を身近なものに感じさせてくれます。
 当時の宿場町は、江戸←→京を行き来する旅人の雑多な会話で騒がしいも、様々な情報交換の場だったことでしょう。
 山間地においても、中心都市の情報を耳にできる宿場がにぎわった交通システムは、街道筋にある宿場の平等性を保っていたとも言えそうです。
 人づてに伝わる情報を、また聞きとして話半分で受け止める、おおらかさを持った時代の空気感が、いまも漂っているかのよう……




 中山道は、山間地を通る険しい道+東海道より距離も長いが、桑名の海路や大井川越えなど水難の危険がない上、東海道より入り鉄砲に出女の取り締まりがゆるいため、女性の利用者が多く「姫街道」とも呼ばれました(宿賃も東海道より割安だったそう)。
 幕末期に公武合体のアピールに利用された、皇女 和宮が将軍 徳川家茂に嫁ぐ降嫁(こうか)行列は中山道を通り、その行列は50kmに及んだらしい。
 馬籠宿ではいまも皇女和宮降嫁行列が行なわれますが、こんな坂道をいくつも越えて嫁いだ覚悟はいかばかりかと……


 山間にある宿場町の印象は、水戸黄門御一行ではなく、木枯らし紋次郎(リンク先YouTube)こそ似合う光景と。
 徳川家康の孫と渡世人では比較にならないが、不良ながらも極道から必死に身を守る姿に、生き抜く本能のようなものを感じていました。
 この地が観光地として注目されたのは高度経済成長期で(1967年馬籠観光協会発足)、1972年に放送開始の紋次郎も、そんな時代から生まれたのかと……


 馬籠は島崎藤村の出身地(小説『夜明け前』の舞台)で、島崎家は宿場町を整備し本陣を努める名士だったことから、本陣跡地に藤村記念館があります。
 こんな傾斜地に宿場が整備されたのは、「峠道の途中でひと息つきたい」と、足を止める旅人が多い急坂だったためか?(山道が多いため宿場間は東海道より短い)
 わたしも途中で断念しますが、急な土砂降りを避けられたので結果オーライと……


追記──阿蘇山噴火…

 ようやく生活が立ち直りかけたところに、追い討ちをかけられた地元の方々には、お見舞いの言葉しかありません。
 地震との関連不明の説明は、裏付けが取れないだけで何らかの関連はありそう。
 観光の方々も「応援のつもりで来ました」の気持ちで足を運んでくれるので、ここが踏ん張りどころ! と、引き続き応援せねばと……

2016年10月8日土曜日

地元の誇りを守る──木曽路

2016.9.26【長野県】──「木曽路を歩く_2」

 以前、隣の天竜川(飯田線)沿いを走った際、落石や険しい峡谷の緊張感から、ヘトヘトになった記憶があります(若い時分は長い距離を走っていたし…)。
 今回の木曽川・中山道(中央本線)沿いには古くから宿場町が整備され、不安なく走れるのは主要街道のおかげと、旅人が行き交った時分に思いを馳せます。




 上は道の駅 奈良井 木曽の大橋で、冬季は閉鎖されるためか売店はなくトイレだけですが、自治体は「総檜造りの太鼓橋」と胸を張ります。
 橋のふもとで写生する老人が、「こんな橋を作るより…」と毒づくのも分かりますが、わたしを含め観光客の関心を引くシンボルに違いありません。
 「橋はこんなもん?」の印象でも「宿場の町並みは素晴らしい!」と満足すれば、広告塔の役目を果たしたのではないか? 橋がなければスルーしたかも知れませんし……

 難所とされた鳥居峠は、北側の信濃川水系(→日本海)と南側の木曽川水系(→太平洋)を分ける中央分水嶺にあたるも、北側の奈良井・贄川(にえかわ)宿は木曽路 十一宿場とされ、南側の木曽に帰属意識を持ちます。
 国ざかいの山間地では線引き争い(美濃と信濃の綱引き)が絶えなかったが、江戸時代に尾張藩(南)とされ、現在は馬籠(まごめ)峠まで長野県とされます。

 右は「鍵の手:クランク状の道」にある荒沢不動。連続テレビ小説『おひさま』のロケ地(安曇野・松本が舞台)で、「いい場所」と思ったはずも記憶から消えている……

 出発前は台風や天候不順で気温の低い日が続くため、山間地向けの暖かい服を選ぶも(半袖を持たず)暑さが戻り、右のひさし(小屋根)で日差しを避けていました(彼岸を過ぎても夏が終わらない…)。
 小屋根は蚕の養殖に由来するらしいが、旅籠では雨宿りする旅人の客引きに利用されたのではないか?
 わたしなら、雨を理由に早々に行程をあきらめ、宿でひとっ風呂浴びて「とりあえずビール?」と、罠に飛び込みそうです……
 右は元櫛問屋の中村邸。


興禅寺:木曽福島


 「京都に負けない!」と驚いた立派な庭園は、山間地に広がる雲海をイメージし昭和期に造園されたもの。
 ここは、鎌倉建長寺の僧侶を招き、木曾義仲の追善供養として建てらた臨済宗の禅寺(1434年 木曽三大寺の一つ)ですが、度重なる大火を受け、国宝とされた平安様式の門(焼失後復元)、門付近にある枯山水の庭(入った途端に目を奪われた)など、ほとんどが再建された施設(下の江戸期に造られた庭は当時の姿らしい)。


 地元のヒーローである木曾義仲は、平氏を京都から追い出し一時は征夷大将軍となるも、評判の悪さ(政治力不足)から人望を失い源 義経軍に破れます。
 その後家系は絶えたとされるも、戦国時代の木曾氏が義仲の子孫を名乗ったように、時代を超えて地域の誇りとされ、菩提寺を守らねばとの強い意志を感じます。
 庭園に感銘を受けるのは、住民の願いが込められるためと……


寝覚(ねざめ)の床:上松(あげまつ)


 こんな山中で、浦島太郎伝説に出会うとは想像もしませんでした。
 竜宮城から戻った太郎は、周辺の景色や人も変わり居場所がないため旅に出て、正面の平らな岩の上で玉手箱を開き、白髪の爺さんになって目覚めた、と伝わるそう。
 ですが、上流の木曽ダム建設(1968年)による水位低下で水中の岩が現れたそうで、以前の水位は判別不能→伝説の真偽は不明ながらも、景勝地であることは確かです。


岩出観音:須原


 ガイドブックに載っておらず、ネットで見かけた写真頼りに探しました(付近の案内板も小さいこと)。1983年に修復されるも、近くで見るとかなり枯れた印象のため、舞台に上がっても縁には立てませんでした(結構高いし、下は道路)。
 平坦地は少ないが木材はあるので、見晴らしのいい場所にお堂を造れば拠り所になるとのもくろみは、景色の良さから人心を集めたようです。
 紅葉雪の季節こそ絵になりそう(信州にはこの手の建造物が多いらしい)。


桃介橋:南木曽(なぎそ)

 右は、1922年(大正11年)建設の木造の橋(支柱はコンクリート)で、読書(よみかきという地名:学校があったか?)発電所の建設資材運搬路として架けられ、真ん中にレール跡が示されます。
 橋の名称は、周辺の水力発電所建設により「電力王」とされた、福澤桃介(福沢諭吉の婿養子)による。
 床板の隙間から見える川にゾッとしながらも、歩かねば実感に残らないと往復します……

 付近の山は神宮備林(伊勢神宮の式年遷宮用のヒノキ確保、育成を目的とした地域)で、森林鉄道が通されますが廃止後は観光用トロッコが走ります(未見)。

 翌日、御嶽山麓の木曽町では、御嶽山の噴火(2014年)による犠牲者を悼む合同慰霊祭が行なわれました。


追記──大隅良典教授 ノーベル医学生理学賞を受賞!

 素人の印象で大変失礼ながら、細胞の基本的な活動(オートファジー)とされるものが、27年前まで発見されなかったことに驚きました。
 「食べなくてもしばらく生きられる」ことの証明に納得し、がん細胞を弱める研究が進んでいることに希望を抱きます。
 ノーベル賞を受賞した先生方は、近ごろの受賞ラッシュは20〜30年前のバブル期の研究成果によるもので、これからもノーベル賞級の成果を期待するためには、現在の研究環境をバックアップする社会的な取り組みが必要、との啓蒙に尽力されています。
 われわれにも、未来の糧となる遺産(希望)を残したい! 気持ちはあるので、可能な部分で協力させていただきたいと……

2016年10月3日月曜日

豊かな水が支える──松本

2016.9.25【長野県】──「木曽路を歩く_1」

 次は「立山〜黒部」と考えていましたが、台風続きで安定しない天候のため、万が一の際も引き返せる木曽路を選びました。

 数年来体調が思わしくない父は、昨年末から完全看護の病院に入り、母・妹の負担が減ったこともあり、3年ぶりに遠出をしました。


松本市街


 松本を訪れた記憶は諏訪湖周辺の勘違いらしく町を歩くのは初めてで、関心を引く松本城や城下町の古い町並みは、戦火を免れたおかげとのこと。
 駅前の三ガク都(楽都、岳都、学都)をアピールする石碑を目にし、山並みや教育熱心な県民性と共に、旧 サイトウ・キネン・フェスティバル松本→現 セイジ・オザワ松本フェスティバルが、すぐに思い浮かぶアピールの上手さも教育のおかげかと。


 上は、四柱神社(よはしらじんじゃ)前の橋に下がる鍋敷き? カメラ背後のナワテ(縄手)通り(江戸期の風情を再現した観光スポット)付近で日曜に開催されるフリーマーケットの案内らしく、「何かやってそう」と目に止まる見事なアピールです。
 川の流れのはやさに「山間地らしさ」を感じるわたしと、日常的に接する地元の方とは生活のリズム感が大きく違いそうです。
 流れる様が見て取れない隅田川をせかせか渡るわれわれと、渓流のような流れをのんびり眺める松本の方との違いは、懐の深さ(気持ちのゆとり)との表現になるのか?


 以前、松本城(国宝)が深志城(ふかしじょう:湿地帯だったことに由来)と呼ばれた時分は、盆地に流れ込む川を濠に利用した浮城のような姿だったそう。
 松本駅の現住所が「深志一丁目」とされるように、駅前に限らず町中には多くの湧水が見られ、いく筋もの水路が残ります。
 J2リーグ松本山雅FCの試合があったらしく、EPSONのロゴ入りユニフォームを着た集団を見かけます。長野自動車道脇に並ぶEPSONの工場群には驚きますが、大量の水を必要とする精密機器製造には最適な環境のようです。
 生活や城を守り工場を誘致した、水に支えられた「水都」と呼べそうです。


追記──日ハム胴上げ投手も大谷!
 プロ野球において「エースで4番は無理」の常識を、くつがえそうとする? 若者の活躍に拍手です!
 今後さらに高まる期待に応えようと挑む気持ちは大切ですが、無理して故障しないよう(松坂は今期も復活できなかった…)見守りたい、と思ってしまいます……


追記──連続テレビ小説「とと姉ちゃん」終了
 雑誌制作に携わる者としては、題材とされた雑誌『暮しの手帖』のような「志」ある雑誌に参加してみたかった、と強く思うところです。
 発行人(社長)と編集長の関係が、夫婦のようなパートナーとして表現され、戦後は男女の協力によって築く時代とのテーマも見事に伝わります。そんなトップの下なら思う存分働けそうと思うも、現在は体制が変わったらしい。
 モノが豊かになりゆく過程は、年齢の高い方にしか理解できないにしても、振り返る機会を与えてくれたことが、本作の意義と感じます。
 平板な前半から視聴率が高かったのは、朝ドラ習慣が戻ったためではないか?