2016年10月13日木曜日

陸の孤島を遺産に──妻籠・馬籠

2016.9.26【長野県】──「木曽路を歩く_3」

 妻籠(つまご)・馬籠(まごめ)宿を通る旧中山道が、木曽川から離れ峠道を選択したのは、道を通せないほど急峻な渓谷があるためだろう。そんな印象を抱きながら木曽川を離れます。




 妻籠・馬籠宿付近の旧中山道は、国道・中央本線・木曽川と分かれて山中に入り、馬籠峠を越えた中津川で再会します。明治期に建設の国道・中央本線は木曽川沿いに通されたため、旧街道沿いの妻籠・馬籠の人通りは絶え、両宿場は陸の孤島と化します。
 はしごを外された後も続いた江戸時代の生活がそのまま取り残されたため、タイムスリップしたような宿場町の風情を体感できます。

 上は宿場の上流にある関西電力妻籠発電所で(1934年:昭和9年運用開始)、送電線の細さに目が止まったが、出力2,800kWは水量からすると大きな電力らしい。すると、都内で見かける太い送電線には相当高圧な電気が流れていそうです。
 都心の停電を招いた送電線火災で、紙の絶縁体を使うと知り驚きました(電気分野にはまるで素養がないんです)。


 1965年観光開発に向けた集落保存の論議が始まり、日本で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に指定〜妻籠宿保存事業開始を受け、68年地元住民が「妻籠を愛する会」を設立し、「売らない・貸さない・壊さない」運動が始まります。
 個別の建物だけでなく、宿場町を丸ごと保存する意義が念頭にあるため、石段、鍵の手(クランク状の道)や建物間を流れる共同用水などには、往時の会話や生活の息づかいが感じられるようにも……


 上はパンフレット等で使われる光景らしいが、左右の木は江戸時代から生えていた? そんな関心が、宿場の歴史を身近なものに感じさせてくれます。
 当時の宿場町は、江戸←→京を行き来する旅人の雑多な会話で騒がしいも、様々な情報交換の場だったことでしょう。
 山間地においても、中心都市の情報を耳にできる宿場がにぎわった交通システムは、街道筋にある宿場の平等性を保っていたとも言えそうです。
 人づてに伝わる情報を、また聞きとして話半分で受け止める、おおらかさを持った時代の空気感が、いまも漂っているかのよう……




 中山道は、山間地を通る険しい道+東海道より距離も長いが、桑名の海路や大井川越えなど水難の危険がない上、東海道より入り鉄砲に出女の取り締まりがゆるいため、女性の利用者が多く「姫街道」とも呼ばれました(宿賃も東海道より割安だったそう)。
 幕末期に公武合体のアピールに利用された、皇女 和宮が将軍 徳川家茂に嫁ぐ降嫁(こうか)行列は中山道を通り、その行列は50kmに及んだらしい。
 馬籠宿ではいまも皇女和宮降嫁行列が行なわれますが、こんな坂道をいくつも越えて嫁いだ覚悟はいかばかりかと……


 山間にある宿場町の印象は、水戸黄門御一行ではなく、木枯らし紋次郎(リンク先YouTube)こそ似合う光景と。
 徳川家康の孫と渡世人では比較にならないが、不良ながらも極道から必死に身を守る姿に、生き抜く本能のようなものを感じていました。
 この地が観光地として注目されたのは高度経済成長期で(1967年馬籠観光協会発足)、1972年に放送開始の紋次郎も、そんな時代から生まれたのかと……


 馬籠は島崎藤村の出身地(小説『夜明け前』の舞台)で、島崎家は宿場町を整備し本陣を努める名士だったことから、本陣跡地に藤村記念館があります。
 こんな傾斜地に宿場が整備されたのは、「峠道の途中でひと息つきたい」と、足を止める旅人が多い急坂だったためか?(山道が多いため宿場間は東海道より短い)
 わたしも途中で断念しますが、急な土砂降りを避けられたので結果オーライと……


追記──阿蘇山噴火…

 ようやく生活が立ち直りかけたところに、追い討ちをかけられた地元の方々には、お見舞いの言葉しかありません。
 地震との関連不明の説明は、裏付けが取れないだけで何らかの関連はありそう。
 観光の方々も「応援のつもりで来ました」の気持ちで足を運んでくれるので、ここが踏ん張りどころ! と、引き続き応援せねばと……

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